今回は、太平洋戦争末期のアメリカ軍艦載機による鉄橋襲撃事案を紹介します。
徳島県の田舎で76年前の7月30日に、実際に起こった出来事ですね。
大勢の方が亡くなられました。
あなたには、戦争中にこんな事があった…と記憶していただければ幸いです。
目次
1 アメリカ軍艦載機による徳島県阿南市鉄橋襲撃事案とは?
⑴ 発生日時
昭和20年7月30日(1945年)16時頃
⑵ 場所
徳島県那賀郡平島村中島
(現在の徳島県阿南市那賀川町中島)
那賀川に架かる国鉄鉄橋(◯参照)
(画像は現在のJR鉄橋:下流から二番目の橋が襲撃された。)
Googleマップより抜粋
⑶ 襲撃者
アメリカ海軍艦載機グラマンF6Fヘルキャット
(目撃証言ではグラマンであるが、実際は違う機種の可能性もあり。)
⑷ 犠牲者
列車乗組員を含む乗客乗員約50名余
(都会からの疎開者を含む。正確な数は不明)
⑸ 状況
当日午後四時頃、県南に向かっていた列車が、那賀川の鉄橋に差し掛かったとき、アメリカ海軍艦載機の襲撃を受けた。
列車には専用の対空火器などの搭載はなく、執拗な機銃掃射(一説には爆弾投下もあった?)により機関車、客車とも破壊された。
⑹ その他
鉄橋を襲撃した艦載機は、沿岸地域で遊んでいる小学生を銃撃後、松茂航空隊基地(現在の徳島空港)を襲撃した。
(基地襲撃と小学生銃撃の関係性は前後逆の可能性もあり。)
2 襲撃された鉄橋の写真
現在も残る当時の弾痕
鋼鉄の鉄橋アーチに穴が空いていますね。
別角度から。
少し離れた場所から。
この弾痕は、橋の上流側(東側)歩道より確認できます。
別角度から。
他にも弾痕はありますが、修理されています。
でも敢えてこの箇所は修理がされていません。
他にもへこんでいる箇所や…
えぐられたような傷跡も。
上流側の歩道
南から。
鉄橋近くの慰霊碑
一級河川那賀川
鉄橋全体
(下流側南西から撮影)
3 現場と襲撃状況の検証
以前の出張時に時間が余ったので、現場へ行ってきました。
(ここはミリタリーマニアには有名な場所ですね。)
無人駅の阿波中島駅から降りて、南へ5分ほど歩くと那賀川の土手に出ます。
その土手を上がると左側に見えてくる鉄橋が現場です。
この鉄橋には、上流と下流側に歩道があって(のちに付けられたようです。)、歩行者や自転車が通行できるのですが、今回の弾痕は上流側の歩道で確認できますよ。
鉄橋には今回の弾痕以外にも、修理されたり、そのままだったりと比較的広範囲にわたり損傷を受けたのがわかります。
高い遮蔽物はないので、天気が良ければかなり遠くから目標を視認できるようです。
さて、ここで実際に当時の戦闘機装備ガンカメラ(機体に取り付けて機銃に連動して撮影するカメラ)の映像を観てみましょう。
太平洋戦争当時にアメリカ軍機が日本各地を銃撃したフィルムはこちらです。⬇︎
画像の中には海岸にいる人(小学生?)を銃撃しているシーンもありますが、この映像は関東らしいので、徳島とは関係のないものです。
建物の破壊も凄まじいものがありますね。
(偶然にも機関車を銃撃するシーンもありました。)
機体に固定された武装(機銃)は、我々が思っている以上に高い命中精度ですね。
昔の戦闘機とはいえ、標的には正確な射撃で大きな被害を与えることが可能というのがわかります。
4 まとめ
慰霊碑によると、犠牲者数は三十余名と正確な数字になっていません。
これは激しい銃撃で人の原型をとどめないくらい、バラバラにされたからだと言われています。
鉄骨ですら穴を開けるくらいの銃弾です。
人に当たったら大変なことになりますよね。
当時のグラマンF6F戦闘機は、一機で6挺の12.7ミリ機銃を搭載していました。
(2機なので合計12挺の計算になります。)
同じような所に何十発も12.7ミリ弾丸が飛んでくるのです。
想像を絶する光景だったでしょう。
橋や列車は確かに軍事目標です。
でも、客車まで狙う必要はあったのでしょうか?
現在も田舎で、当時と変わらぬのんびりしとした雰囲気の阿南市那賀川町中島。
今では想像もできません。
我々は、決して忘れてはいけないことがあります。
それは、「昔日本は戦場だった」ということです。
もう二度と日本を戦場にしてはいけませんね。
でも、もしそうなったら…今度はなんとしても守りたいです。
犠牲者の冥福を心からお祈りします。
できれば、今後も埋もれた戦跡を記事にしていきたいと思います。
(今回の襲撃時に撮影されたガンカメラ映像を探しています。心当たりのある方はぜひ教えてください。)
それでは、また次回をお楽しみに!
(20240822更新)
参考:旧日本軍装備に関する記事はこちらです。⬇︎
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読んでいただき、ありがとうございました。
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